八月に想う -「無条件降伏」と「敗戦」の意味-
今年も8月15日を迎えた。
この日になると、先の大戦でのポツダム宣言受諾と、その際に日本は「無条件降伏」をして終戦となったとの説明を、繰り返し耳にする。しかし、それは本当であったのだろうか。
大東亜戦争末期に、日本の戦争終結に向けた動きは、アメリカの諜報網により、既にアメリカの国家指導者たちの知るところとなっていた。アメリカ陸軍省が傍受した崇信を大統領に報告する「マジック報告書」と呼ばれる、機密報告書があった。サイパン島が陥落した翌月の昭和19(1944)年8月11日の報告書では、日本がソ連を仲介として講和を模索しているという事実が、既に詳細に書かれていた。
となれば、アメリカがそのきっかけを用意すれば、戦争の早期終結も可能と判断された。
しかしそれを難しくしたのが、トルーマン大統領が拘った「無条件降伏」という縛りだった。
この「無条件降伏」は、条件を定めて終戦を実現する過去のやり方とは異なり、相手国が無条件で降伏するまで「戦争を継続」し、相手を「完膚なきまでに叩き潰す」ものと理解されていた。連合国がこの言葉を使ったことで、日本側に「最後まで戦う以外にない」と決意させたとも言え、「無条件降伏」という終戦条件は、確実に和平交渉の障壁となっていた。
事態が大きく動いたのは、昭和20年の4月である。アメリカ軍が沖縄上陸作戦を開始したのが4月1日、ソ連が日本との中立条約を破棄すると発表したのが4月5日、鈴木貫太郎内閣が発足したのが4月7日、そして4月12日にはルーズベルト大統領が死去し、トルーマン副大統領が大統領の地位に就いた。
トルーマン大統領は、就任早々の4月16日の議会演説で、枢軸国(日独伊)との戦争終結の条件は「無条件降伏」だと明言した。ドイツが降伏した際の5月8日の声明でも、大統領は「日本軍が無条件で降伏するまで攻撃を停止しない」と言い放った。
一方、日本の政府と統帥部は、提示された「無条件降伏」とは、国を明け渡すことであり、それを受諾すれば国家は解体され、天皇は処刑され、国民は奴隷に貶められると理解した。鈴木貫太郎首相も、アメリカの標榜する無条件降伏だけは絶対に受け入れることはできないとの決意を、施政方針演説でも明らかにしていた。そこから日本としては「国体護持」、つまり「天皇の地位の保証」を絶対条件として、終戦の交渉に臨んでいたのである。
アメリカもまた、それまでの日本軍の戦いぶりからしても、日本を「無条件降伏」させるには、犠牲があまりに大きいと考えた。そこで方針を変え、ポツダム宣言を発出し、そこに記された条件を受け容れさせることによる「条件付き降伏」という形を取り、最終的に日本の停戦合意を取り付けることができたのである。すなわち、日本は決して「無条件降伏」をしたのではなかった。しかし、それをそうだと信じ込まされてきたのも、占領方針に副った戦後教育によるものなのである。
降伏という形で停戦協定に調印した以上、敗戦を認めるのは仕方がないが、それでも正義を枉げない堂々とした敗者の姿を示すことは出来た筈なのだ。しかし戦後の日本社会にみられたのは、国民啓蒙の意識に燃えた、マスコミや知識人と称される人々が口にする、戦争に対する反省・悔恨・呪詛の氾濫であった。同時に彼らがその言辞を弄するときの道徳的優越の表情や、祖国の歴史に対する批判的言辞を弄(もてあそ)ぶことで、己の優越性を手にし得るかのような態度であった。
それらの言説を見るときに思い浮かぶのは、仕組まれた近代主義という病弊に侵された知性の怠慢と、対日情報心理作戦がいかに日本の知識人社会に根深い害毒を浸透させたかという、第二の敗戦の悲しき現実である。
敗戦の原因は文化の優劣には関係がない。日本が敗北したのは敵国と戦った結果であり、敗戦の惨禍をもたらしたのはその敵である。敗戦は世界史にはありふれた悲運であり、それは道徳的に反省すべき事態ではない。その経験を活かし、再生のための教訓とするという反省があればそれで充分であった筈なのだ。
敗戦は決して亡国ではない。亡国への途は、強者に阿ね国家の矜持を忘れた国民の意識が作り出すのだと思う。