「信念を達し得る」ために

今年も8月の終戦の日を迎えた。

そしてこの日は、靖国神社に祀られている英霊への感謝と尊崇の念を表すために、多くの人達が参拝に訪れる。

しかし、そこに政治の最高指導者たる首相の姿は見られない。そして参拝に訪れた政治家に対し、「A級戦犯の合祀は許されるのか」、「中国、韓国からの反発にはどう説明するのか」などと、意味のない質問を繰り返しているメディアの光景も、未だ変わらずに続いている。

そこには、自分たちが育った郷土、家族や同胞、愛する人たちを守るために命を捧げた先人たちの想いや、自らの将来の希望や夢も全て断ち切り飛び立っていった特攻兵士たちへの畏敬の念などは微塵も感じられず、国を守るという基本的な国民の義務などは、意識の端にもないようにさえ思える。

 

 

大東亜戦争の末期、レイテ沖海戦の最中の昭和19年10月20日、世界戦史上類のない、航空特別攻撃隊が出撃した。

当時の戦局は日に日に悪化し、敗戦色が濃厚な中、特攻作戦が決行されたのである。苦悶の末に特攻隊編成の決意をした大西瀧治郎中将は「この危機を救える者は大臣でも、大将でも、軍令部総長でもない。諸氏の如く純真にして気力に満ちた若い人々である」、「ここで青年が立たなければ、日本は滅びる。しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びない」と隊員に訓示した。

しかし同時に彼は特攻攻撃を「統率の外道だ」とし、生還の可能性がない特攻攻撃が軍の作戦として常軌を逸するものであり、後世長く厳しい評価が下されることも自覚していた。

 

 

特攻隊の出撃は終戦まで続けられ、敗勢そのものを覆すことはできなかったが、米軍に大きな恐怖を与えた。大西中将は終戦の翌日、介錯をつけずに自刃したが、その遺書には次の言葉があった。「特攻隊の英霊に申す。よく戦ひたり、深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れどもその信念は遂に達し得ざるに至れり。」

 

現在フィリピンのマバラカットにある旧日本軍の東西飛行場跡にはKAMIKAZEを顕彰する碑が建っている。その中に「第二次世界大戦において日本神風特別攻撃隊が最初に飛び立った飛行場」との銘を刻んでくれたのは、フィリピン人のダニエル・ディソン氏であるが、彼はこう語っている。

「長い間フィリピンを植民地にしてきたフランスやアメリカに比べれば、日本のフィリピン支配は殆ど無いに等しいものでした。日本は、そのたった4年の間にカミカゼ精神をもたらしてくれました。それはフィリピン人にとって最良のものでした。それは忠誠心であり、規律であり、愛国心でした。それが、フィリピンが戦争の時代に日本から学ぶべき良い点なのです。カミカゼはアジアの人間であり、アジアの英雄でした」(『フィリピン少年が見たカミカゼ』)

 

 

大東亜戦争には数々の過誤、失敗があった。しかし、戦争の目的という点から見れば、「人種平等」「植民地解放」「新アジア国際秩序の構築」という、日本の掲げた理念を、世界が認めざるを得ない時代の到来をもたらした。その引き金を引いたのは、日本という国なのであり、特攻隊に象徴される日本人の行動である。

 

国家の防衛のために散華した特攻隊は、数値化、計量化、可視化できないものを私たちに遺してくれた。その歴史的価値を理解し、今後の日本の力に活かしていくことは、今を生きる我々の使命でもある。「信念は遂に達し得ざる」という、そんな日本に堕したままであってはならない。